檜原村の素晴しいところの1つは、各集落にさまざまな伝統芸能が伝わり、現在でも地域の人々によってそれが継承されていることです。そのほとんどは、江戸時代が起源。江戸時代には飢饉とか、昭和時代には太平洋戦争とか、二百年以上の長い間には、大きな困難も多々あったに違いないのですが、それらを乗り越えて今まで続けられていることは、まさに驚きです。
NPOの拠点のある藤倉では9月の第2土曜日、神社例大祭に獅子舞が奉納されており、私たちも準備から片付けにいたるまで、運営のお手伝いをしています。
祭りの直前の日曜日は花作りと会場設営。花作りは、主に地区の女性たちによって担われ、花笠に付ける桜、菊などの造花を作ります。薄い紙を切ったり折ったりする細かい作業の連続で、ほぼ一日がかる大仕事。出来上がった美しい花笠には、地域みんなの思いが込められているようです。
本番の獅子舞いは、土曜日の午後3時、藤倉小学校のすぐ近くの鍵取り家の庭でスタートします。その後、春日神社、藤倉ドームと移動し、9つの全ての演目(タチ)が終了するのは深夜12時です。ゆったりした笛の調べに、獅子たちのパワーが炸裂し、当日は現代と過去が混ざり合うような不思議な空気が立ちこめています。
今年、NPOでは、花笠を冠って獅子の回りでリズムを刻むササラ役と、子どもたちに大人気の駄菓子屋コーナーの店番などでお手伝いをしました。伝統芸能とは無縁の都会から来た人にとっては、このような由緒ある祭りに参加することは、大変貴重な経験となります。
この藤倉の獅子舞は、「大日本獅子舞来由」という古文書によると、1781年に奥多摩町氷川小留浦から伝わったということです。秩父、奥多摩、檜原村辺りでは、18世紀に入って、江戸に向けて炭・材木が大量に生産されるようになり、山間村落の生活にも余裕が生まれました。この余裕が、多様な芸能を村々に成立させ、獅子舞も、村から村へと伝えられていったということです。
かつての山村の暮らしは、人力の及ばない過酷なことがたくさんあったことでしょう。人々はお祭りを通して、五穀豊穣、無病息災、天下太平を強い思いで祈願したに違いありません。又、質素な暮らしをしていた人たちにとって、獅子や花笠がどんなにきらびやかに見えたか。祭礼は村人の娯楽や社交の場としての役割も果たしていたようです。
藤倉の獅子舞いは翌日の日曜日、地区の人々が集まって行う片付けで終わります。終了後の人々の顔には、大仕事をやり終えた後の満足感、安堵感のようなものが漂っていました。
檜原村のお祭りに参加すると、日本人が長い間営んできたコミュニティーのあり方や、商業主義ではない、本物の地域文化と出会えます。
藤倉獅子舞がこれからもずっと続いていくように、NPOとしても応援したいと思っています。